tamagome logs

たまごにことだま、こめてめばえる。

KKST-0019

 浴槽に胸まで浸かったまま、バスピローに頭を預けて、文庫本を十ページほどゆっくり読み進めたところだった。

 ユニットバスの中折れとびらが何の前触れもなく一度に開いて、真っ黒に塗り潰された、人型の『かたまり』が、一気に中へ乗り込んできた。

 理屈じゃなかった。わたしの意識は理性を瞬時に凍結して、本能にからだじゅうを直につないだ。

 内蔵からつま先までの血肉がショックでぴん、と痙攣し、夢中で目一杯空気を吸って、その勢いで立ちあがって部屋の角に退いた。なんの間合い取りにもならなかった。

 恐怖はおくれてやってきた。

 けれど感じるには大きすぎた。

 『かたまり』はほんのわずかの間、洗い場でじっとしたあと、きゅっきゅっ、というゴム底の靴音だけ鳴らしてわたしに躍りかかり、その手を押しつけてわたしの視界を塞いだ。振り払おうとしたのを、あわてて振りほどこうとして、からだのバランスを崩した。そこまで裏目に出て、やっと、わたしは悲鳴をあげることを思いついた。

 けれど遅すぎた。

 底を抜いた叫び声のはしりに、からだが滑って、背中から頭まで水中に落とし込まれた。

 不快な熱さと濁音のあと、耳に鼻に、遅れて口に、見境なく湯が食らいついて侵した。

 気管と肺が反射でよじれたとき、わたしの本能は人間をやめた。

 ただ苦しい、狂ったような苦しさに耐えられない一心で、目をひりひりぼやけた水中に見開いた。ひたすら腕と首と、はみ出た脚とでもがいた。へりを掴もうと、相手をなぎ払おうと、起き上がろうと、空気を掴もうとして、『かたまり』の乗り上げる白い水面を泡まみれにゆがめた。左右に乱れた視界が浴槽のとらえきれないアイボリーをなめた。心臓の鼓動が痛い。心臓の鼓動が痛い。

 『かたまり』は全く動じなかった。

 その全く光沢のない黒の両手をしっかり差し込んできて、尋常でない、終わりない力で、わたしの両肩を湯の底へ押しつけて、押しつけ続けた。

 そして、何度目かの激しいむせかえりの途中から、ごうごうと大嵐のような低い轟音とともに、わたしの意識はすうっと白み、端々の感覚が痺れとともに消えていった。熱く、重く、痛く、苦しくからだを貫いていた湯が、急に優しく撫でつけるように思えて、悶絶が胸の奥の奥へ渦を巻いて仕舞われていくのに、引きずられるように、髪を振り乱した『かたまり』が、真っ赤な面に真っ赤な眼で、何か口走る映像が、焼き付いてすぐ暗闇の果てへ持っていかれた。

「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
 ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない」

 

 その後わたしが一命を取り留め、病院の集中治療室で目を覚ましてから、決して地獄にいるのではないと確信するまでには、短いとはいえない時間がかかった。

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)

 仮題:あぼれる
 分類:スリル
 作成開始日:二〇一三年三月二十三日
 作成終了日:二〇一三年三月二十三日
 制作時間:二時間半くらい
 文字数:千百五十七