tamagome logs

たまごにことだま、こめてめばえる。

KKST-0020

 天使の羽まである黒髪を鏡越しにゴムで束ねながら、ハツヱは朝のまどろみの中で感じた、さざ波のような快さの正体を、自分の素知らぬ顔の奥にただした。

 幻想の始まりには、ヒイラギの広くてすらりとした体躯があった。

 見上げるハツヱに彼は、ほほえみかけるわけでも、からかうわけでもなく、なにか気持ちをたたえたくろい瞳をじっと向けて、抱きすくめた彼女の首肩へ、静かに自分の頬をあずけた。

 ふたりはそのまま何も言わずに、若草の香りがする、やわらかな、かたちのない寝台の上で、ほのかな光にまみれながら、互いのからだを確かめていた。そんな浅い夢を視たのだった。

 白地に紺襟の制服をかぶり、背中のファスナーを締め、ハツヱは自分の欲望は明白だと確信した。

 ヒイラギに好意を寄せることも、彼から寄せられることも、心のどこかでひそかに期待していたのだ、と、今さら分かっても、決して彼女は嫌に思わなかった。校舎で良くも悪くも度々意識する相手だ、成り行きにも不思議はなかった。

 ただ少しだけ、彼女は、胸のあたりに、何ともいえない小さな不安のきれはしがはためいているのを感じていた。——夢の中のヒイラギ、彼は、何を思って自分にすがったのだろう。彼はどう思っていると、『自分は思いたかった』のだろうか。好きな相手に、本当にあんな顔をして欲しいと望んでいたのか。その意味は何なのか。

 行き着いた予想はあった。

 鏡の向こうのハツヱに、彼女はそれを投げかける。

 左右反転した彼女が、夢の中のヒイラギと、同じかげりを目に含んで、

「ひとりよがりだよ」

 と暗に言い渡した、ような気がした。

 彼女はふと我に帰り、耳のふちをさっと赤らめながら、襟元の赤いスカーフをぎゅっと絞って、きっと姿鏡に背を向けると、夜の凝りをほぐすように二、三、翼をゆるく開いては、閉じた。

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)

 仮題:したく(sprout feeling)
 分類:気持ち
 作成開始日:二〇一三年四月八日
 作成終了日:二〇一三年四月八日
 制作時間:一時間半くらい
 文字数:七百六十九

KKST-0019

 浴槽に胸まで浸かったまま、バスピローに頭を預けて、文庫本を十ページほどゆっくり読み進めたところだった。

 ユニットバスの中折れとびらが何の前触れもなく一度に開いて、真っ黒に塗り潰された、人型の『かたまり』が、一気に中へ乗り込んできた。

 理屈じゃなかった。わたしの意識は理性を瞬時に凍結して、本能にからだじゅうを直につないだ。

 内蔵からつま先までの血肉がショックでぴん、と痙攣し、夢中で目一杯空気を吸って、その勢いで立ちあがって部屋の角に退いた。なんの間合い取りにもならなかった。

 恐怖はおくれてやってきた。

 けれど感じるには大きすぎた。

 『かたまり』はほんのわずかの間、洗い場でじっとしたあと、きゅっきゅっ、というゴム底の靴音だけ鳴らしてわたしに躍りかかり、その手を押しつけてわたしの視界を塞いだ。振り払おうとしたのを、あわてて振りほどこうとして、からだのバランスを崩した。そこまで裏目に出て、やっと、わたしは悲鳴をあげることを思いついた。

 けれど遅すぎた。

 底を抜いた叫び声のはしりに、からだが滑って、背中から頭まで水中に落とし込まれた。

 不快な熱さと濁音のあと、耳に鼻に、遅れて口に、見境なく湯が食らいついて侵した。

 気管と肺が反射でよじれたとき、わたしの本能は人間をやめた。

 ただ苦しい、狂ったような苦しさに耐えられない一心で、目をひりひりぼやけた水中に見開いた。ひたすら腕と首と、はみ出た脚とでもがいた。へりを掴もうと、相手をなぎ払おうと、起き上がろうと、空気を掴もうとして、『かたまり』の乗り上げる白い水面を泡まみれにゆがめた。左右に乱れた視界が浴槽のとらえきれないアイボリーをなめた。心臓の鼓動が痛い。心臓の鼓動が痛い。

 『かたまり』は全く動じなかった。

 その全く光沢のない黒の両手をしっかり差し込んできて、尋常でない、終わりない力で、わたしの両肩を湯の底へ押しつけて、押しつけ続けた。

 そして、何度目かの激しいむせかえりの途中から、ごうごうと大嵐のような低い轟音とともに、わたしの意識はすうっと白み、端々の感覚が痺れとともに消えていった。熱く、重く、痛く、苦しくからだを貫いていた湯が、急に優しく撫でつけるように思えて、悶絶が胸の奥の奥へ渦を巻いて仕舞われていくのに、引きずられるように、髪を振り乱した『かたまり』が、真っ赤な面に真っ赤な眼で、何か口走る映像が、焼き付いてすぐ暗闇の果てへ持っていかれた。

「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
 ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない」

 

 その後わたしが一命を取り留め、病院の集中治療室で目を覚ましてから、決して地獄にいるのではないと確信するまでには、短いとはいえない時間がかかった。

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)

 仮題:あぼれる
 分類:スリル
 作成開始日:二〇一三年三月二十三日
 作成終了日:二〇一三年三月二十三日
 制作時間:二時間半くらい
 文字数:千百五十七

KKST-0018

 高校の部活を終えて自宅へ帰ったタケルは、玄関ドアに寄りかかった赤い小さな寝袋の中で、見知らぬ年少の娘が、どっぷり眠りこくっているのに出くわした。

 動転して息をのんだ彼が、忍び足で近寄りながら凝視するのをよそに、少女は、九歳か十歳くらいと思しき幼げの残った顔だけ出して、ただ静かに寝息を立てていた。いとこたち、友達の妹、同じアパートの子供、……そのどれとも似つかない、全く見知らぬ子だった。

 砂埃で汚れたスポーツバッグをそっと背後に置いて、間近にしゃがむと、タケルは少し躊躇してから、寝袋越しに、少女の肩を軽く叩いた。

「おい、」

 呼びかけると、少女は電源が入ったようにぼんやりまぶたを開けて、彼のほうへ首を捻った。まだしっかり寝覚めていないのか、けだるい眼をして、一言も発しない。

 タケルは反応に困りながら、もう一度話しかけた。

「おい、起きろ」

 んん、と鼻から声をもらし、もぞもぞと寝袋の中から両腕を出した少女は、ちょっと曲がった方角へ伸びをした。そのままがっくりうな垂れて、どうも不満げに首を振る。

「起きた?」

 タケルの問いに少女、んん、とまた鼻返事。

「何寝てんの。ひとんちの前で」

 三十秒くらい黙ってから顔を上げた彼女は、やっと口を開いて、ことばを発した。

「キミのおかあさんは?」

「は?」
 彼はすっかり呆れた様子で、
「おかあさんは? じゃねえよ。なんでこんなとこで勝手に寝てんだって訊いてんの」

「おかあさんじゃないと、話になんない」
 少女はおしゃまに言いのけて、そっぽを向いた。「ねる」

「こら」
 若干タケルはしゃくに障って、目を閉じた彼女の二つに分けた三つ編み髪を引っ張った。
「ここからどけろ。警察呼ぶぞ」

「やだあぁあっ、おにーちゃんがいたずらするぅぅうーっ!」

「わっ、ちょっ、」
 いきなり町内に良く通る大声をあげられて、彼は思わず飛び退いた。
「馬鹿、うるせえ、何考えてんだ!」

「警察呼ぶよ」勝ち誇ったように見上げる少女。

「うわあ、殴りてえ……」
 やり場のない両手をわきわきさせながら、タケルはそれを睨んで、
「とにかくそこをどけ」

「やだ」

「どけ」

「やだ」

「……、どk」

「やだ」

「ジョンソン」

「あ?」

 全く言うことを聞かないので、舌打ちするタケル。

「なんでだよ」

「キミじゃ話にならないから」向こうは寝袋の前で腕を組んで、悠然と構えている。

「なにが」

「訊いても無駄」

「なんなんだよ、一体……」

 ぎゅっと目をつぶって嘆く彼を、ふふふ、と少女がせせら笑った。

 その後も、持ち合わせのチョコレートや百円玉を差し出しつつ、繰り返し少女に立ち退きを求めるが、てんで彼女は応じない。いよいよタケルは、天を仰いだ。

 秋の空は淡く乾き、陰った電線と平行に細切れの雲が滑り、スズメが二匹、らせんを描いて飛んでいく。それを見送りながら、思い直して少女に尋ねた。

「うちの親に会ったら、絶対どくんだな?」

「結果によるね」

「家出して、帰る家がない、とかじゃあないの?」

「発想がまずしい」

「うう、殴りてえ……」

 タケルは失笑して、視線を枯葉のへばりついた地べた、ツタの這う年季の入ったアパートの壁のひび、ドアの脇の窓の、磨りガラスの向こうの洗剤、新聞受けの夕刊、と絶え間なく移した。最後にやっと、少女を見下ろす気になる。

「じゃあ名前、お前の名前は?」

 少女は返事の代わりに、首にぶら下げている携帯電話を寝袋から出して、画面を向けてきた。『鬼立かなめ』という文字と、電話番号が表示されている。タケルはその字面に、何となく心当たりがあったが、

「おにたつ……」

「キ/リュ/ウ」

 読みすら知らない程度であった。

 丁度そのとき、両手に買い物袋を提げた彼の母親が、アパート前の小路を歩いて戻ってきた。ただいま、といういつもの声を聞き、ほっとしながらタケルが振り返ると、母親は、慌ただしく寝袋をうごめかす玄関前の少女を見つけ、たちまち血相を変えていた。

 そして、道の反対側で足を止めたまま、こわばった口で言いかける。

「……あなた、キリュウさんのところの、……」

「そうです。むすめです」

 カナメは満を持したようにそう返事してうなずくと、寝袋の中にあった帳面をばっと開いて読んで、中身を確かめてから、笑顔で親子へ告げた。

「六ヶ月分、二十七万ゼロゼロゼロゼロ円のお家賃の支払いがありません。どうしますか?」

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)

 仮題:寝袋少女バリケイド
 分類:謎解け
 作成開始日:二〇一三年三月十六日
 作成終了日:二〇一三年三月十六日
 制作時間:四時間半くらい
 文字数:千八百四十

KKST-0017

       (一)

 月面九条通(くじょうどおり)を甲と乙が、簡易宇宙服でタンブラー片手に並んで歩いていた。甲、軽やかに、「なんか右腕がうずくから/殴るね」と切り出す。乙、笑顔のまま訊き返す。

「え?」

 

       (二)

 間髪なく、一歩引いて軽く屈んだ甲が、乙の腹部ど真ん中に右拳を打ち込んだ。ぼご、と衝撃でくの字に折れる乙の全身。笑顔から噴き出すなにか。ほっぽり飛ぶタンブラー。

 

       (三)

 そのまま後方へ水平に吹っ飛んでいく乙。背中で電柱をなぎ倒し、ブロック塀をぶち破る中で、なにもかも悟ったように、そっとまぶたを閉じ、おだやかに心の中で呟いた。

(いいんだ……/いいんだ……)

 

       (四) 

(分かるよ……/それがお前のやさしさ……)

 黒い空の下、一斗缶の山を突き抜け、一軒家、自動車、雑居ビルと次々貫通して遠ざかっていく乙を見届けながら、甲は胸に右手を当て、乙のことを想った。

(でもな……/それが社会をダメにするんだ)

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)

 仮題:はやく目を覚ませ
 分類:意外性
 作成開始日:二〇一三年三月十日
 作成終了日:二〇一三年三月十日
 制作時間:一時間半くらい
 文字数:四百二十七

(投稿二時間後追記:こんな短文なのにかなり致命的な誤記があったため、修正しました。ショック……)

KKST-0016

〇次のキーワードを用いて、八百字以内で物語のあらすじを書きます。

(建設コンサルタント・デジタル生命体・市警察・農業組合)

※キーワードは、Wikipediaの「おまかせ表示」機能を利用して、出来るだけランダムに選びました。

 

〇おしあがり(八百字)

 建設コンサルタント会社に勤めるカジワラは、州の部局から、三十年前整備された農業用パイプラインの機能調査を依頼され、ある地方都市へ赴いた。調整池に接続された地下幹線のうち、破損を理由に五年前から断水したまま放棄された「ハチスカ送水G」の管内へ興味本位で入った彼は、突然、同行していた州職員に襲われ意識を失う。

 目を覚ましたカジワラは、管内のあちこちで、発光したポリゴン立体が動いている光景に驚く。昏睡している自身の姿を見、自分が幽体離脱していると考えた彼は、生還するために地上の者へ事態を知らせようと模索。いくつかの立体とのやりとりを通じて、使われていない配水管末端からの脱出に成功し、農業組合の倉庫へ侵入、中にいた作業員のマキイエへ助けを求めるが、会話ができず、ただ怖がられて逃げられる。カジワラ自身も小さなポリゴン立体と化していたのだ。試行錯誤の末、倉庫の旧式パソコンを作動させられることに気づいた彼は、男どもを連れて戻ってきたマキイエへ、画面を通じて危機を伝え、体を救出してもらい、無事意識を取り戻した。

 カジワラの身柄はすぐに、表向き存在しない「市警察」の隊員・ミチハラの元に渡る。彼はカジワラへ、ハチスカ送水Gが二十年も前から断水され、州有力者の主導で、デジタル生命体の実体化試験に使われたのち、有力者の死により封印されていたことを伝える。秘密保持のために殺されかけたと知ったカジワラは激怒するが、デジタル生命体が消滅すれば彼を自由の身にさせられると話すミチハラに協力し、立体たちから得ていた「水に弱い」という情報を伝える。

 ミチハラを初めとする市警察が動き出し、将来の軍事転用をもくろむ州政府の一部勢力の妨害作戦を突破してハチスカ送水Gに通水、立体たちの姿は消え、カジワラは解放された。しかし、彼がマキイエをお礼に訪ねたとき見たのは、大量の水分を得て実体化した立体たちの群れだった。

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)
 仮題:ハチスカポリゴン
 分類:粗すじ
 作成開始日:二〇一三年三月三日
 作成終了日:二〇一三年三月三日
 制作時間:三時間くらい
 文字数:九百二十六

KKST-0015

 悪友どもと賭けポーカーに興じて笑い転げていたところに、まるごと、張り倒すような怒声が響いた。

「何してるの!」

 熱帯夜のテラスが、水を打ったように静まりかえる。

 振り返ると、血相を変えた母が、寝間着姿のまま奥の扉からこちらへ身を乗り出していた。おれはほとんど一心不乱に、その場へ生ぬるい手札と硬貨ひとつかみを放り出し、仲間を蹴り除けて、手前の扉にすがりついた。

 三階の回廊に出る。シャンデリアからの油灯りが、じっとり吹き抜けを照らしていた。夢中で駆けだしたとき、不意に壁際のピアノの鍵盤に手をついてしまう。冷たい感触のあと、重い不協和音が跳ね上がった。引きずられる感覚を振りほどいて、おれは必死で逃げた。

 手応えのない赤絨毯の上を踏みしめて、細く遠く続く回廊を走っていく。焦げ色の幾列もの書架と、睡蓮柄の彫られた手すりが、両目の脇にぶれながら流れていく。

 その途中、ふと思った。

(嘘だ)

 そして立ち止まった。

(こんなおかしなことはない。そうだ、おれは粗末な賭博で遊んだりはしない。万が一にも付き合わされるにしたって、母親にまざまざそれを晒すような節操のないやり方はしないんだ。これは何かの間違いなんだ)

 おれはきびすを返して、胸の内の不安を振り払おう、理不尽を打ち壊そうとせき立てる体のままに、逃げ道を舞い戻った。

(そうだ、)
(これは夢なんだ。そうとしか考えられない!)

 回廊を曲がり、テラスへの扉を二つ超え、更にその角にある閉ざされた片扉へ急ぎ、息吐かぬ間にばん、とそれを引き開けた。

 八帖ほどの簡素な洋間で、母はこちらに背を向けており、一個垂れた白熱灯の傘の光の下、黙って台所のコンロで炒め物をしていた。おれの感情は、激しい確信に変わって、そのまま口をついて出た。

「ほうら、さっきと服が違う、エプロンを着てるじゃないか!」
「おれはなんにも間違っちゃないんだッ!」

 ばらばらに崩れて
 暗転。

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)

 仮題:正当化回廊
 分類:夢原作
 作成開始日:二〇一三年二月二十四日
 作成終了日:二〇一三年二月二十四日
 制作時間:一時間くらい
 文字数:八百十四

KKST-0014

 クミニシフェルト墓地のコテージをひと月借りたぼくは、五月から六月にかけてをそこで、やまいを癒やすためにひとり、静かに過ごした。平屋の小さな建物にはひと坪くらいのウッドデッキが組まれており、日中はもっぱらそこで読みものや書きものを、あるいはうたた寝をしていた。

 山のふもと、森のはしは、春の暮れでも朝晩冷える。雨の日は少なかったが、灰白色の空がしばしば眼下の墓銀座に流れて霞んだ。同じ色の息を吐き、震えながら、煮詰めた煎じ薬をすすってのどを通すと、その度に、じんわりからだの芯がほてって、たしかにいのちが動いていることを感じられた。

 エリアスの墓前の仏蘭西菊(ふらんすぎく)を取りかえ、こうべを垂れて祈るころには、しだいに山の向こうから、まぶしい光が降りそそいでくる。そしたら眼を細くして小屋へかえって、電子インクのビニルパネルを開いて、てのひらの上に、いままで毛嫌いしていた新書を日替わりで映し、噛んで含めるよう目を通した。

 どこかで、近くで、遠くで、短い鳥の合図が、途切れ途切れに、静かに揺らぐホワイトノイズの中に投げられては、かすかにこだましていた。不思議なもので、夜明けにはとても硬質に聞こえていたのに、空気が乾いて明るくなるにつれ、輪郭がぼんやりと優しくなって、とても心地よい。

 お昼に日持ちパンとお茶をとると、あたり一面には、ほんのりあたたかいそよ風がからまってできた、腰丈くらいのかたまりがちらほら、草木にはねかえってはずんで、気まぐれに転がっていくのが見えるようになる。ときどき、みどりをひとかけ、花弁をひとかけ食んで、たわむれに軽々と回している。

 いくつかは僕のところへ来て、頬のいちばん敏感なところと、鼻と額へ、にじみこむように撫でつけたあと、まもなくぼうっ、と耳元で囁いて、また向こうへ舞っていく。それになすがまま任せていれば、じきにぼくの意識も、ふちのほうから丸まってきて、からだとのしがらみを落とし、幸せな無へ至れた。

 日が色づき出すと、もっぱら書き写しがしたくなった。ビニルパネルの左半分をメモに切り替えて、右半分の逸文を、静電ペンで無心になって反復するのだ。エリアスがデッキの手すりに腰掛けて、ぼくに話しかけてくるのは、大体がこうしているときだった。
「なにを書いているんだい?」

 やつはいなくなった幾年も前のまま、背にした夕日に柔らかい髪を透かせ、なびかせて、影になった白い顔で、にこやかにしている。それを見て、ぼくは本当に安心した気分になって、一切の気構えを取りはずし、熱いくらいのからだの芯からの声で、そっと答えるのだ。
「呪文みたいなものだよ」

「いいね」エリアスはうなずいて、のぞき込んでくれる。「どんな?」
「戦うための」
 ぼくは、しっかりとやつに伝えた。
「戦うためのことばだよ」

 

(※この文章の内容は、フィクションです。趣旨については「はじめに」をご覧ください。)

 仮題:かぜのたま(breezy one of them)
 分類:勢いで
 作成開始日:二〇一三年二月十六日
 作成終了日:二〇一三年二月十六日
 制作時間:二時間くらい
 文字数:一千百六十二